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御由緒

​【はじまり】

延暦11年(792年)蝦夷鎮護の祈願所として草創されました。

同20年(801年)坂上田村麻呂将軍が東夷征討の時、社殿を再興し天御中主神を祀り妙見宮と呼ばれるようになりました。

【津軽藩の成立~江戸時代】

その後、津軽藩が成立した時、外ヶ浜の古社として初代藩主 津軽為信公が再建。

​二代目藩主 信牧公をはじめ、歴代藩主より祈願・参拝、社殿修復も賜りました。

四代目藩主 信政公におかれましては、厳かで神聖な境内を整えるため社殿を再建し、桜樹を移植、庭園も築きました。

 

九代目藩主 寧親公は、由緒深い当社のご神事を盛り立てようと、壮麗な本殿を構築し、御神器・諸物を寄贈。国家安泰を祈願して御真筆の社号額も奉納し、津軽藩の大社に列して社禄を与えるなど、藩の中でも重きをおく神社となりました。

 

そして一般民衆からも厚く敬いられ、大祭及び新年元旦祭には、近隣はもとより遠方の村落からも多くの参拝者が訪れたと伝わっております。

 

【明治~現代へ】

明治初年、廃藩置県と共に藩からの社禄及び、一切の出費が廃止となりました。

明治3年まで”妙見宮”と称していましたが、同年の神仏分離令により大星神社と改称。

明治6年に郷社に列されました。

 

第二次世界大戦中は青森市内も大規模な空襲を受け、壊滅的な被害を受けましたが、中心街よりやや離れた地域にあった当社は奇跡的に戦禍を逃れ、九代目藩主に寄贈・御奉納賜った本殿や社号額などが現存しております。

新嘗祭土俵.jpg
新嘗祭本殿.jpg
新嘗祭妙見宮太鼓.jpg

ねぶた伝説
大星神社に伝わるねぶたの起源

桓武天皇は、征夷大将軍 坂上田村麻呂を津軽へ蝦夷征伐に送りました。

田村麻呂は浪岡(浪岡八幡宮)に陣を構え、岩木山に住む蝦夷の長 大丈丸を討伐しました。

次いで耕田の山中にいた姉弟、首領の姉 阿屋須(おやす)と副首領の弟 屯慶(とんけい)を討ちに向かいました。

姉 阿屋須(おやす)が討たれると、弟 屯慶(とんけい)は抵抗を強め「胡茄(こさ)」という笛を吹きました。

するとあたりはたちまち霧が立ち込め、田村麻呂たちは苦戦を強いられました。

竹・木・紙で作った大きな人形と笛・囃子で蝦夷を誘い出そうとする田村麻呂。

胡茄(こさ)の笛で霧をまとい、隠れる蝦夷たち。

 

一進一退の戦いが続きます。

そこである夜、田村麻呂は北斗七星に祈願すると夢でお告げを受け、目覚めると枕元には十二の鬼面がありました。

​早速田村麻呂はお告げ通り、その鬼面を被せた12人の兵で攻めると霧が晴れ、たちまち屯慶たちを討ち取ることができました。

田村麻呂の軍は勝利を祝い

「ねぶた流れろ、豆の葉にとっちぱれ、えいえいやあ」

と歌い踊りながら紙や竹で作った大きな人形を引き、帰途につきました。

 

これが青森ねぶた祭りの起源と伝わっております。

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大星神社 妙見宮

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